安全寺の歴史

曹洞宗 大蔵山安全寺は、正長元年(今から約600年前・室町時代初頭)、孤岩伊俊(こがんいしゅん)大和尚が再興したといわれます。

片平修広寺の、末寺であり、前の本堂は安永2年(約250年前・江戸時代中期)のものでしたが、平成元年に新しく建てかえられました。

安全寺の御本尊は、地蔵菩薩で、高さ一尺(約30センチ位)の木坐像です。

薬師堂は、本堂の西にあり、源頼朝の出陣のころ、すでに建てられていたといわれます。 高さ一尺五寸(約45センチ)の薬師像があり、堂内左右には、日光・月光両菩薩及び十二神将の像がまつられています。 → お薬師様の縁起

境内は、約九百坪。 江戸時代には朱印八石を賜っていたと記録されていますが、昭和二十五年の農地解放によって、大分小さくなってしまいました。

安全寺の歴史

安全寺の沿革

当山は「大蔵山 安全寺」と号し、曹洞宗(禅宗)であります。
福井県の永平寺、神奈川県の總持寺が両本山です。

もとは薬師如来を祀る薬師堂のみが建立されていました。医薬に乏しい時代に人々が病苦を恐れ、病に苦しんだとき、その平癒を祈願したのが薬師如来です。源頼朝が北条政子の眼病祈願のために当山薬師堂に参詣し、荒廃した堂裡を守る僧に「汎く近村に歓進し、以って斯堂の改築を図るべし」と命じ、幾星霜を経て改築のはこびとなったと伝えられています。そして仏縁の深いこの土地に安全寺が開山されました。

御開山は、孤岩伊俊大和尚。開創は正長永享の頃(室町時代前期)と伝えられております。その後、慶安年中 当山七世一国和尚代の時に徳川三代将軍家光より仏供領として朱印八石を賜っております。

禅の道場として多くの人々の信仰とご尽力によって支えられて栄えてまいりましたが、当山は出世寺(足掛け寺)と称され、当山から大きなお寺へ代々の住職が出世していくという寺でした。それゆえ、土間付きの伝統的な、しかも堂々たる風格の本堂を持つ寺にしては発展がなかったようです。明治初期の頃まであった楼門(鶴川農協横)中に安置されていた十六羅漢様は、財力がなく再建出来なかったため現在本堂奥に安置されています。

十八世は東京青山の玉窓寺、十九、二十世は埼玉県熊谷の報恩寺にそれぞれ出世していかれております。二十二世文雄和尚が三十五歳の若さで他界したためその歴史が終わり、二十二世、二十四世弘文和尚(先代住職)だけが当山に眠っております。

現在の姿へ

平成元年(1988年)二十四世弘文和尚は当山の仏法興隆のため、老朽化した本堂の建築を発願し、旧鶴川中学校体育館用地を売却、総代世話人をはじめ、檀信徒一同の絶大なる賛同と協力で完成しました。弘文和尚は父である二十二世文雄和尚を生後7ヶ月で亡くし、師匠の成し得なかった伽藍整備事業は悲願でしたが、事業半ばで病に倒れ帰らぬ人となりました。

その事業を受け、客殿庫裏を平成17年(2005年)3月に成し遂げました。かくして、当山の法燈はありがたくも約600年に渡り脈々と今日にいたっております。